日本のモータリゼーションを作った明治の男の物語/島津楢蔵、山口銀三郎 ・ライト兄弟の自転車

 

ライト兄弟の自転車

 まるで銭湯の壁にあるような背景画の前で、自転車と共に写るのは十台半ばの楢蔵である。自慢げというより、少々生意気な表情に撮れているが、実際そのような性分の少年期を過ごしたかもしれない。

 写真館に持ち込まれた自転車は、湯川氏の著述によるとアメリカ製デイトン号とあり、銀三郎本人が書き残したノートには米国製ピアス号とある。また、別にもピアス号と書かれた資料があるのだが、いずれも楢蔵、あるいは銀三郎への聞き取りを元に残された記述に違いないので、なかなか判断が難しい。けれどもいろいろ調べてみると写真のこの自転車は、湯川氏が言うところのデイトン号であるようだ。

 “デイトン”というのはアメリカ・オハイオ州の地名で、動力機付きの飛行機による人類初飛行を実現したライト兄弟の住んでいた町である。ライト兄弟はその町で、ザ・ライトサイクルという自転車店を営み、自転車の製造と販売を行い飛行機の研究資金を得ていたのだが、[※2]当地の資料館に残されているバン・クリーブ(VAN CLEVE)というモデルが写真の自転車に酷似している。相違点は泥よけと、フロントスポーク前部のワッペンの有無くらいのもので、スプロケットやスポークが二股に分かれる部分の形状などは全く同じであることから、この自転車はライト兄弟の作ったバン・クリーブ号に間違いないだろう。

 ピアス製自転車という記述は、銀三郎の勘違いか、あるいは別にもう1台買い与えられていたか、はたまた当時アメリカ製自転車を総称してピアス自転車と呼ぶようなことがあったのか。いずれにしても[※3]120円は、資料の記述通り巡査の給与で計算すると、現在の400万円近い額に相当する。父親が小学~中学生くらいの子どもに買い与えるサプライズプレゼントにしてはかなり法外で、それ以上に[※4]日本の自転車保有総台数が5万数千台だった時代では、とにかく珍しかった。銀三郎がノートに“羨望の的だった”と記していることを見ても、こりゃわがままな小僧たちだったろうなと想像するわけである。

 それはともかく、その自転車が他でもないライト兄弟の手元から、はるばる海を越えて日本の島津兄弟のところへやってきたことが興味深く、不思議な巡り合わせを感じる。残念ながらこの写真には裏書きがなく、従って湯川氏の著述によると1900年(明治33年)、銀三郎のノートには高等小学校2年のとき、つまり1903年(明治36年)とあり、またこのバン・クリーブという自転車の販売が開始されたのが1901年という記録もありで、今のところ正確な年が確定できない。けれども、少なくともライト兄弟が初飛行に成功した1903年12月17日以前であることは間違いなさそうで、まだ楢蔵が航空機用エンジンの虜になるきっかけを作った森田新造氏と出会うどころか、オートバイに夢中になって棚橋鎌太郎氏を訪ねるという出来事より十年近くも前のことなのである。2輪で地上を走り回ることに夢中になり、そして空を見上げてまた夢中になった日本とアメリカに生まれた2組の兄弟。まさか、こんなところで小さな接点があったとは思いもしなかった。

 それにしても銀三郎、相当なやんちゃ振りだったようで、ひき逃げはいかんぞ。


※1)後に銀三郎がガスヒューズを発明し興した会社。

※2)ライト兄弟研究家・Tony Hara氏のホームページより。

※3)自転車文化センターのホームページによると、双輪商会のカタログに正価130円とある。10円値切って買ったようで、さすがは関西人。

※4)自動車文化センターの資料より。

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 かつての一日、楢蔵が十三才、銀三郎七才のとき、父はアメリカ製デイトン号なる立派な自転車を購入した。スタイルが大変スマートで、ハンドルなどのきれいな部品は、ひどく両少年の目を驚かせた。父は、その値段が一二〇円也の高価であったのを意に介しなかった。むしろ安価で技術を買ったと思った。しかし、当時は明治三三年のことで、巡査の月給が金七円也の時代であったからたしかに高価であるに違いなかった。

 この自転車メーカーのライト兄弟が、その後三年たった明治三六年十二月(一九〇三年)十七日には世界に先がけて、オハイオ州のキティーホークの海岸に初飛行を遂げた世界的ニュースは、父親を中心とした団欒の一夕話の話題にはふさわしいものであったに違いなかった。

100万人の工業技術 1 技術開発への道 湯川勇吉著 ダイヤモンド社・昭和46年11月18日刊より


 嬉しい自転車、高等一年生の時、父島津常次郎が金貨120円で米国製ピアス自転車を私の知らぬ間に買って来ました。今の自動車族以上の珍しさで羨望の的そのものです。肩で風切って乗り廻していたがある時犬齋橋附近で女の子をひいた。怖くて家へ帰らずにあちこち走り廻って居りました(ひき逃げ)。ひいた事が知れて、お母さんと一緒にあやまりに行きました。(最近[※1]ガストップKKの近くの喫茶店主がひかれた子の兄である事がわかり不思議なものです)

私の履歴書 山口銀三郎 自38.9.5(日記風ノート)

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